「留頭不留髪、留髪不留頭」 (頭を留める者は髪を留めず、髪を留める者は頭を留めず) (辮髪令に関する高札、1645年)
生徒にうけること間違いなし! 辮髪のカツラを作ってみました! 17世紀、中国全土を支配した満州人(女真)は、漢人男性に対して辮髪を強制しました。辮髪は満州人の風習ですが、これを拒み従来の髪型を維持することは、それだけで清朝への反抗を意味しました。辮髪にしなければ死刑、すなわち「頭を留める者は髪を留めず、髪を留める者は頭を留めず」というわけです。 満州人の強制する辮髪は、頭頂または後頭部以外の髪を全部剃って、残った髪を三つ編みにするという髪型です。それは、漢人が夷狄として軽蔑していた北方民族の髪型だったので、辮髪の強制をめぐって熾烈な戦いが引き起こされました。 さて、辮髪を強制された漢人の気持ちがわかるような史料を集めてみました。まずは、儒教の経典の一つ『孝経』より。 身體髪膚〔しんたいはっぷ〕、之〔こ〕れを父母に受く、敢〔あ〕へて毀傷〔きしょう〕せざるは、孝の始〔はじめ〕なり。 (私たちのこの体は髪の毛、皮膚に至るまで父母からいただいたものである。傷つけないように、大切に生きることが親孝行の始めである。) 「親からもらった大事な髪の毛を剃るなんて、そんな親不孝なことは私にはできない!!」ってなわけで、この髪を剃るということは、儒教倫理的には耐えがたいことであったようです。日本でも「親からもらった身体に傷をつけて、耳にピアスの穴をあけるなんて許せない!」なんてことを言う人がいますが、これも儒教の影響でしょうか。 次は、イエズス会宣教師Martino Martiniの記録。 韃靼軍は格別の抵抗を受けずに紹興府を占領した。浙江省南半の府縣も、容易に征服し得べき形勢であつたが、然し韃靼軍が新に歸順した漢人に辮髮を強制するや否や、一切の漢人――兵士も市民も――は皆武器を執つて起ち、國家の爲よりも、皇室の爲よりも、寧ろ自家頭上の毛髮を保護せんが爲に、身命を賭して韃靼軍に抵抗して、遂に彼等を錢塘江以北に撃退した。 (桑原隲蔵『支那人辮髪の歴史』あおぞら文庫)
イエズス会宣教師にとって、「命をかけて髪を守る」漢人の姿は印象的だったようです。 また、清朝崩壊後に出版された『満夷猾夏始末期』には、次のような記述があります。 満州族が入関した当初は、薙髪令を下し、我が民族は、辱しめを受けまいと死んだ者の数は知れなかった。幸いにして死ななかった者は、或は地下の穴蔵に隠れ住み、或は奥深い山に逃げ込み、甚だしく落髪して僧衣をまとい、幾多挫折しても屈しない気概で、腕が折れても、首が落ちても、肉がこま切れにされても、身が砕けても、自刃を踏んでも、鼎鑊に赴くとも、このとるに足らない髪を剃ることを絶対許さなかった。その思いはただ一つ髪にあるのだろうか、いや、それは上国の衣冠が夷狄の俗に落ちぶれることを見るのが堪えられなかったからである。 (劉香織『断髪 近代東アジアの文化衝突』朝日新聞社、p.62-63
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なんというプライドの高さ! 死んでも辮髪はしない、というわけです。 一方、時間が経過して辮髪が漢人に定着すると、「もう辮髪のままでいいんじゃないの?」という意見も出てきます。以下は、変法派の康有為の言葉です。 おもうに(満漢は)同化して一国となり、ほんのわずかの差異もない状態となって以来久しいのである。漢人は満州の風俗である衣服、辮髪に同化しており、いまさら宋明の服に改めても、かえって落ち着かないと感ずるであろう。 (劉香織『断髪 近代東アジアの文化衝突』朝日新聞社、p.84
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それに対し、同時期の革命派である章炳麟は、そんな状況を嘆く書簡を書いています。 小生、学の道に入り、初めて『東華録』を読んでより、深く満州族の皇帝を憎み、これを必ず滅ぼさんことを誓いました。(中略) 中国議会の諸君は、賢き者は保皇を念じ、愚かな者は爵位を保つことを念じつゝ、誰もが満州人皇帝を尊奉しており、満奸戴師保の如く、不倶戴天の満州への恨みも次第に忘れ、非常に遺憾なことであります。 小生はまず一書を認め、満蒙人の(国会)入会を厳重に拒絶するよう要請しましたが、会員たちは皆これを認めませんでした。私は激怒して、直ちに辮髪を切り落として満清政府の意図には従わない意志を表明すると同時に、書面を送って退会を宣言しました。 (兒野道子訳「章炳麟の断髪と「辮髪を解く」の一文」
『近代中国の革命思想と日本 −湯志鈞論文集−』日本経済評論社、p140-141 ) ここでは辮髪を切り落とすことが、清朝政府への反抗の意志表示になっています。 そして、清末に辮髪をやめる革命派が増え始めると、事態はややこしくなってきます。清朝政府は禁制を厳しく敷き、散髪しているのを見かければ革命派として殺しました。以下は清末の様子を伝えた『満清稗史湘漢百事』の記録です。 凡そ湖北に竄入したる革命党は、髪を剪りたる者が十中八九なり。而(しかれども)湖北各学堂の学生髪を剪りたる者亦多し。誠に玉石の分たえずして、其禍を受くに致ることを恐れ、特に各学堂監督提調等に飭(いまし)め、転じて各学生に飭める。已に髪を剪りたる者は、急ぎにせ辮髪を装い、未だ髪を剪らざる者は、一律に剪髪を禁止す。ここにおいて一般の剪髪したる学生は紛々外に出てにせ辮髪を購い、省ざかいの薙髪店の商売がこのため発達したり (劉香織『断髪 近代東アジアの文化衝突』朝日新聞社、p92
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おー! まさかのカツラ(にせ辮髪)大繁盛! いったん切ってしまえば簡単にはもとに戻らないのが髪。早々に辮髪を切り落としたものの、清朝政府に見つかったら殺される。生き残るにはカツラ(にせ辮髪)に頼るしかないですよね。 他にも、この時期、髪を切るか切らないかというトラブルはいろいろあります。辛亥革命の武昌蜂起の直後、田舎から来た人の多くは辮髪だったため、軍が武昌のメインストリートに立ち、道行く人の辮髪を切りとったそうです。切られた人の中には泣き出す人もいたとか…。 そして、中国を代表する小説家魯迅は、次のように書きました。 わたしが中華民国を愛し、やっきになって、衰亡を憂慮するのも、大半は、中華民国によって我々が辮髪を切る自由を得たためである。もし当初、古蹟保存のため、辮髪をのこして切らせなかったなら、わたしは多分、これほど中華民国を愛さなかったであろう。 (魯迅「太炎先生から思い出した二、三の事」『魯迅全集』第八巻、学習研究社、p628
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ここまで言い切るとは、魯迅ってよっぽど辮髪が嫌いなんですね。 ところで、世の中にはハゲや薄毛で悩む男性がいっぱいいます。どうやっても辮髪ができない人がいたと思うんです。当時、そういう人もやっぱりカツラ(にせ辮髪)を使っていたのでしょうか。だとすると、今みたいに有名人のヅラ疑惑が話題になって、「つむじがない」とか「生え際が不自然」とかなんとか言われた人がいたのでしょうか・・・。 【製作過程】 (1)材料 ・文化祭の演劇で使ったカツラ ・ダイソー製「みつあみ」 ・ダイソー製「水泳キャップ」 ・使った後の紅茶パック ・縫い針と糸 (2)カツラを三つ編みにしましたが、長さが足りないので、ダイソー製「みつあみ」を黒いゴムでつなげました。 (3)使い終わった紅茶パックをグツグツ煮込み、その後、白い水泳キャップを一日浸しておきました。 もうちょっと色が濃いといいんだけどなぁ。 (4)着色した水泳キャップにカツラを縫い付けて、完成! ゲームに夢中で、自分の姿を理解していない息子 【参考文献】 ・桑原隲蔵『支那人辮髪の歴史』あおぞら文庫 ・劉香織『断髪 近代東アジアの文化衝突』朝日新聞社、1990年 ・兒野道子訳「章炳麟の断髪と「辮髪を解く」の一文」『近代中国の革命思想と日本 −湯志鈞論文集−』日本経済評論社、1986年 ・魯迅「太炎先生から思い出した二、三の事」『魯迅全集』第八巻、学習研究社 【参考ホームページ】 ・パパの株が上がる初心者DIY実践塾 … 水泳キャップを紅茶で染色する方法を参考にしました。 |